「民主化」の本質とは何か。134年の歴史を持つ企業が挑む、生成AIの全社展開2025年10月、都内で開催された本イベントには、大手企業の生成AI推進担当者が多数参加しました。会場は熱気に包まれていました。テーマは「生成AIの民主化」。多くの企業が活用率の低迷や現場の温度差に悩む中、ライオン株式会社は異なるアプローチで確実な成果を出しています。今回登壇した中林紀彦氏(執行役員 全社デジタル戦略担当)は、日本IBM、オプトホールディング、SOMPOホールディングス、ヤマトホールディングスなど大手企業のDX(デジタルトランスフォーメーション:デジタル技術による業務・組織変革)を牽引してきた人物です。2024年4月にライオンに参画し、わずか1年半で100名を超えるAIエージェント開発者を育成、独自LLM(大規模言語モデル)の開発にも着手しました。その推進力の源泉はどこにあるのでしょうか。ファシリテーターを務めたのは、Cynthialy株式会社の小澤健祐氏(取締役CCO)。「中林さんとは10年来の知り合いで、組織改革を伴うDXが本当に得意な方です」と紹介した通り、対談は終始フランクでありながら、実務者だからこそ語れる深い洞察に満ちていました。創業134年の老舗企業が掲げる「LDX」とは冒頭、中林氏はライオンの経営戦略について語りました。同社は1891年創業、今年で134周年を迎える老舗企業です。「習慣づくり」をパーパス(企業の存在意義)に掲げ、ハミガキから洗剤、石鹸まで、人々の日常生活を支える製品を展開しています。「実は90年前から全国小学生歯みがき大会を開催しています。習慣をつくり、それに資する製品を開発する。これが私たちのDNAです」現在、同社は「Vision2030」という中長期経営戦略フレームを策定しており、2nd STAGEとして「収益力の強靭化」を目指しています。そこで掲げられたのが「LDX(ライオンDX)」です。中林氏が率いるデジタル戦略部は、従来のIT部門とDX部門を統合した組織。グローバル全体のデジタル戦略立案と実行を担っています。その戦略は3本の柱で構成されています。1. データドリブン経営のためのデータ基盤構築ERP(基幹業務システム)などのトラディショナルなシステムから、AIエージェントに活用するデータまで、すべてを統合基盤に集約。2. 本業拡大のためのデジタル化口腔衛生から口腔機能、さらには「噛む力」「飲み込む力」「会話を楽しむ力」へと事業領域を拡大。それを支えるデジタルサービスの開発。3. 新しいデジタルプロジェクト・ポートフォリオの創出DXを通じた新規事業の創造。特筆すべきは、これらの戦略が13の重点テーマに落とし込まれ、サプライチェーン最適化から研究開発、購買最適化まで、具体的なKPI(重要業績評価指標)と紐付けられている点です。「戦略から落とし込まないと、結局うまくいかないです。キラキラした高級な道具を買ってきて自己満足、というのを何度も見てきました」と中林氏。組織改革を伴うDXの本質を突く言葉です。社内生成AI「LION AI Chat」の立ち上げと進化ライオンの生成AI活用は2022年秋、ChatGPTの登場直後から始まりました。当初からセキュリティを重視し、社内環境で安全に使えるツールの開発に着手しました。「データが外部に流出しないよう、社内のクローズドな環境でツールを構築しました。モデルはChatGPT、Claude、Geminiなど主要なモデルを使い分けられるようにしています」この仕組みは内製(自社開発)で構築されました。データサイエンスチームが中心となり、普及活動も並行して実施。ワークショップ、勉強会、社内コミュニティの形成を通じて、着実に利用者を増やしていきました。2024年6月にはアップデートを実施。AIエージェント機能(特定のタスクを自動化するAI機能)を実装し、社内文書生成、論文検索、議事録作成など、マルチAIエージェントを提供開始しました。「議事録作成は本当に便利で、Teamsの音声ファイルをアップロードするだけで、文字起こしから議事録作成まで自動化できます。日本語の認識精度も問題ありません。社内でもとても喜ばれています」利用率のグラフを見せながら、中林氏は「リリース直後に一時的なブーストがありますが、その後着実に伸びています」と説明。平均利用率の推移からも、定着が進んでいることが見て取れました。 知識継承の切り札「RAG」と独自LLM開発の挑戦多くの企業が直面する課題が、社内データとの連携です。ライオンも例外ではありませんでした。「AIを社内で推進していく中で、利用者からは社内データを使いたいというニーズが一番多かったです。特に研究開発部門からの要望が強かったです」2023年から実験を開始し、2024年8月に研究開発部門向けのRAG(Retrieval-Augmented Generation:検索拡張生成。社内データを検索してAIの回答に活用する技術)システムをリリース。研究報告書や生産関係のトラブル情報、製造に関するドキュメントを検索できる仕組みを構築しました。「定量的にも効果が出ています。情報を探す時間が大幅に削減され、検索性が劇的に向上しました」ただし、課題もありました。130年以上の歴史を持つ企業だけに、紙の資料も膨大に残っています。「デジタル化されているのは過去30年分程度です。紙の資料をOCR(光学文字認識)でデジタル化するにもコストがかかります。費用対効果を慎重に検討しながら進めています」そして、ここからが本イベントの最大の見どころでした。ライオンは、RAGの次のステップとして、独自LLM(Large Language Model:大規模言語モデル)の開発に着手したのです。正確には、SLM(Small Language Model:小規模言語モデル)と呼ばれる、より軽量で特化型のモデルを開発しています。「汎用モデルとRAGだけでは、やはり痒いところに手が届かない。社内にはもっと多くの情報があるのに、なぜ出てこないのか、という声がありました。採用したのは、AWSのプログラムを活用したQwen 2.5 7B(70億パラメータを持つオープンソースのLLM)ベースのモデル。社内の研究開発データ約1.5Mトークン(約150万語相当)を学習させ、全パラメータを更新する「継続事前学習」を実施しました。よく知られているファインチューニングという手法は一部のパラメータ(AIモデルの調整可能な値)だけを更新しますが、ライオンは継続事前学習と呼ばれる全パラメータを更新する本格的な学習を行っています。「GPU(画像処理装置。AIの学習に必要な高性能計算機)確保が大変で、予約して計算資源を押さえています。もはや買ってもいいかなと思い始めています」と中林氏は笑います。実際の効果はどうでしょうか。スライドには具体例が示された内容は、より具体的で、社内の知見を反映した回答になっています。小澤氏は「来年、再来年には、ほとんどの会社が独自モデルを持つ時代になるでしょう。さらに一人一人がモデルを持つ時代も来るかもしれません」と指摘。中林氏も「必然だと思います。特化した情報で学習させた方が絶対にいいです」と同意しました。Difyによる民主化 ― 100名のエージェント開発者育成プログラムここまでは、中央のデジタル戦略部が主導する取り組みでした。しかし、真の民主化は現場から生まれます。「研究開発部門でRAGを展開したら、他の部門からも『うちでも使いたい』という声が殺到しました。でも、そんなに大量には作れません」そこで導入したのが、Dify(ディフィ)というノーコードプラットフォーム(プログラミング不要でアプリを作れるツール)です。2023年から実験を開始し、2024年には本格展開。現場の社員が自らAIエージェントを開発できる環境を整備しました。「Difyを使えば、社内データとの連携も含めて、手軽にRAGの仕組みを作れます。専門チームに依頼しなくても、現場が自分たちのニーズに合わせて開発できます」目標は年末までに100名の開発者を育成すること。実際には9月時点で100名を超えました。研修プログラムの設計が秀逸です。単にツールの使い方を教えるのではなく、2ヶ月間のプロジェクトベースで実施されます。研修の流れWeek 1-4: アイディア出しと評価 自分の業務の中で、何がAIエージェント化に向いているかを精査。難易度、インパクト、実現可能性を評価し、優先順位をつけます。Week 5-6: 業務フロー・データフローの可視化 ワークシートを使って、現在の業務プロセスを可視化。条件分岐、例外処理を洗い出し、最適化を検討します。同時に、どんなデータを使い、どんな出力をするかも整理します。「実はこれ、一人BPR(ビジネスプロセス・リエンジニアリング:業務プロセスの抜本的見直し)なんです」と小澤氏が指摘すると、中林氏は頷きました。「その通りです。まず自分の仕事を客観的に整理させます。プロセスを可視化することで、本当に最適化されているかを検討できます」Week 7-8: アプリケーション開発 Difyを使って実際にエージェントを構築。アジャイル的に試行錯誤しながら完成度を高めていきます。Week 9: 効果測定 Before/Afterで、どれだけ時間短縮や品質向上ができたかを定量・定性両面で評価。費用対効果も算出します。この研修で特に重要なのが、データフローの整理です。「100名、200名、300名と増えていくと、現場でどんなデータが使われているかが集約されます。これはデータマネジメントに活かせる貴重な情報です」実際の成果事例も紹介されました。事例1: 商品アンケート自由記述の分析自動化手作業で行っていたキーワード抽出、分類、デバイス別集計を自動化。作業時間を大幅削減しただけでなく、人によるブレ(判断のばらつき)がなくなりました。事例2: 申請書類の事前チェック新製品開発時の申請書類について、ガイドライン準拠や記載漏れを事前チェック。手戻りを防止し、リードタイムを短縮しました。研修完了時点での継続活用率は78%。さらに現在も上昇中だといいます。「やりっぱなしではなく、ウィークリーで相談会を開催し、ブラッシュアップを支援しています。本当に使えるものを作って、継続的に活用してもらうことが重要です」一方で、課題も見えてきました。完成度の高いアプリを作れる人と、そうでない人の差が生まれたのです。「業務フローをしっかり整理できる人は、完成度が高いです。できない人は、やはりアプリケーションも完成度が低い傾向があります」ローコード(プログラミングが簡単)だからといって、誰でもすぐに使いこなせるわけではありません。ロジカルシンキング、関数や条件分岐の概念理解、例外処理の設計など、プログラミング的思考が求められます。それでも、100名を超える開発者が誕生したことの意義は大きいです。来年はさらにスケールを目指します。「コンテンツをオンライン化し、eラーニングで学べるようにすることも検討します。数百、数千のエージェントが社内に生まれる状態を目指しています」小澤氏が「ソフトバンクさんも今年の夏、社員にGPTsを100個ずつ作らせる取り組みをしていましたね」と紹介すると、中林氏は興味深そうに頷きました。「ただ、毒舌ギャルボットのような、定性評価は高くても定量評価がゼロのものも出てきます。だからこそ、いかに現場に目を向けるか、業務とつなげるかが重要だと思います」と小澤氏は続けた。トップダウンとボトムアップの両輪で推進するここで、竹森社長のビデオメッセージが流れました。「生成AIの民主化によって、価値の高いクリエイティビティや仕事、オペレーションエクセレンスを実現します。日本企業が世界で再び力強い競争力を取り戻すために、私たちは生成AIの民主化を必ず実現いたします」トップ自らが全社にメッセージを発信する。これが、ライオンのDX推進の強さの源泉です。「ボトムアップだけでは限界があります。トップダウンとのサンドイッチで挟まないと、うまくいきません」と中林氏。実際、今年から「働き方トランスフォーメーション」として、経営レベルでの議論も本格化しています。「よく『見なし時間で何万時間削減しました』という発表を見ますが、それだけでは不十分です。時間の量だけでなく、質を上げることでアウトプット、アウトカムを大きくする。そこまで設計しないと、経営への貢献にはつながりません」活用率や削減時間といった定量指標だけを追いかける企業が多い中、定性評価も含めて効果を捉える姿勢が印象的でした。 ハイブリッド人材という概念 ― 現場とITをつなぐ存在民主化の土台となるのが、人材育成です。ライオンでは「ハイブリッド人材」という独自の概念を定義しています。「ビジネス知識とデジタルスキルの両方を持ち、現場と専門チームをつなぐ人材。これがDX推進の鍵です」経済産業省のデジタルスキル標準では、5つの職種、16のロールが定義されています。しかしライオンは、自社の戦略に合わせて19の人材類型を独自に作成しました。「13の重点テーマを実現するために、どの人材が何人必要かを算出しました。そのギャップを埋めるために研修を設計しています」昨年、全社員を対象に350問のアセスメント(スキル評価)を実施。現状のスキルレベルを可視化し、一人ひとりにレーダーチャートでフィードバックしました。「あなたはこのスキルが弱いので、こういう研修を受けてください、と個別にアドバイスしています」今年は質問を50問に絞り込み、再度アセスメントを実施予定。ギャップを埋めるための研修プログラムも、年末から来年にかけて本格展開します。重視しているのは、以下の3つのスキルです。1. ビジネスアーキテクト: 業務プロセスを設計・最適化できる能力2. UXデザイン: 使いやすい仕組みを設計できる能力3. データリテラシー: 基礎的な統計知識を持ち、データを扱える能力「機械学習ができなくても、確率・統計の基本概念、シグマ(標準偏差の記号Σ)が何か程度は理解してほしいです。特に部長以上は必須だと考えています」そして興味深いのが、生成AIによって求められるスキルも変化しているという指摘です。「ビジネスアーキテクトのスキルがあれば、生成AIを使ってデザインもデータ分析もある程度できるようになります。生成AI時代だからこそ、業務を構造化して考える力がより重要になっています」質疑応答で見えた実務者の悩みと解決策質疑応答では、参加者から実践的な質問が相次ぎました。Q: 研修で業務時間をどう確保していますか?「今期に開催した2回は時間外での参加でした。有志で手を挙げてくれたメンバーに、週1〜2時間の研修と、自習時間でやってもらいました。しかし、次回からは業務時間内で実施します。経営メンバーとも議論し、会社の戦略として位置づけることで、ちゃんとリソースを確保する方針です」Q: 専門チームの人数も増やしていますか?「昨年、中途採用を増やしました。データサイエンティスト、クラウドエンジニアなど、さまざまなスキルの人材です。ただ、専門チームだけ増やしてもダメです。活用する側とのバランスを取りながら、徐々に増やしていく必要があります」Q: 人材類型へのフィードバックはどうしていますか?「数百問のアセスメント結果を、レーダーチャートで全社平均・部門平均と比較できる形でフィードバックしています。弱いところを伸ばすための研修も案内しています。そして、プロジェクトごとに必要な人材と人数を明確にし、足りない部分を補う研修を設計しています」実務者ならではの悩みと、それに対する現実的な解決策。参加者は熱心にメモを取っていました。イベントを終えて ― 「再現性」がもたらす価値濃密な約1時間の対談を通じて浮かび上がったのは、「再現性のある民主化」という概念です。多くの企業が生成AI活用で苦戦する中、ライオンは確実に前進しています。その秘訣は何でしょうか。1. 戦略からの落とし込み: 経営目標→13の重点テーマ→DX戦略という明確な紐付け2. トップダウンとボトムアップの両輪: 社長のコミットメントと現場の主体性3. 人材育成への投資: 100名規模の育成プログラムと継続支援4. 定量・定性両面の評価: 時間削減だけでなく、質の向上まで見る5. 適材適所の技術選択: 汎用LLM、RAG、独自SLM、Difyを使い分け特に印象的だったのは、中林氏の「道具だけ買ってきてもうまく使いこなせない」という言葉です。生成AIは確かに強力なツールですが、それを使いこなすのは人であり、組織です。業務プロセスを可視化し、データフローを整理し、効果を測定する。こうした地道な取り組みなくして、真の価値は生まれません。そして何より、10年以上にわたり複数の企業でDXを推進してきた中林氏の経験と、それを体系化して展開する実行力。これこそが、ライオンの強さの本質なのでしょう。後日のアンケート集計を通し、今回のイベントでは、参加者から非常に高い満足度が得られたことがわかりました。AIエージェントの開発・運用に関しては、非エンジニアでも運用できる仕組みの構築に大きな関心が寄せられました。また、プロンプト設計のノウハウ不足、どの業務からAI化を始めるべきかの判断、既存システムとの連携方法、AIエージェントの精度向上・改善方法といった課題意識が浮き彫りになりました。プロセスへの組み込み、置き換え、定着についても言及がありました。生成AI推進は、孤独な戦いになりがちです。だからこそ、こうした場で同じ課題に向き合う仲間と出会い、成功事例から学ぶことの価値は計り知れません。Cynthialyから ― 共に学び、共に成長するコミュニティへ本イベントを主催したCynthialy株式会社は、「人間とAIが共存する社会をつくる」をビジョンに掲げ、法人向けAI導入支援や、AI推進者が集まるコミュニティづくりに力を入れています。本イベントレポートをお読みいただき、ありがとうございました。ライオン株式会社の事例から、生成AI推進の具体的なヒントを得られたのではないでしょうか。Cynthialy株式会社では、今後も企業のAI推進担当者が集まり、知見を共有し、課題を解決するためのイベントを定期的に開催してまいります。また、「自社でも同様の取り組みを始めたいが、どこから手をつければいいかわからない」という方は、お問い合わせフォームからお気軽にご相談ください。登壇者プロフィール中林紀彦氏 ライオン株式会社 執行役員 全社デジタル戦略担当日本アイ・ビー・エム株式会社においてデータサイエンティストとして企業の様々な課題を解決。その後、株式会社オプトホールディング データサイエンスラボ副所長、SOMPOホールディングス株式会社チーフ・データサイエンティスト、ヤマトホールディングス株式会社の執行役員を歴任し、2024年4月にライオン株式会社の執行役員に就任。全社デジタル戦略担当としてグループ全体のIT・デジタル・データに関する戦略立案と実行を担う。小澤健祐氏 Cynthialy株式会社 取締役CCO「人間とAIが共存する社会をつくる」をビジョンに掲げ、AI分野で幅広く活動。著書『生成AI導入の教科書』の刊行や1000本以上のAI関連記事の執筆を通じて、AIの可能性と実践的活用法を発信。一般社団法人AICX協会代表理事、一般社団法人生成AI活用普及協会常任協議員を務めるほか、GoogleのAI「Gemini」アドバイザーとして生成AIの活用普及に貢献。Cynthialy取締役CCO、Visionary Engine取締役、AI HYVE取締役など複数のAI企業の経営に参画。日本HP、NTTデータグループ、Lightblue、THA、Chipperなど複数社のアドバイザーも務める。千葉県船橋市生成AIアドバイザーとして行政のDX推進に携わる。NewsPicksプロピッカー、Udemyベストセラー講師、SHIFT AI公式モデレーターとして活動。AI関連の講演やトークセッションのモデレーターとしても多数登壇。